2010年6月17日

バタヴィア船の記録

 一六二九年六月四日の朝、三百十六人が乗ったオランダ領東インド会社のバタヴィア船は西オーストラリアのジェラルトン町から六十キロメートル離れたアブロホス諸島のモーニング岩礁で難破した。その後、海事年代記の中で最大も恐ろしい反乱が起きた。
 一六二八年十月二十八日、東インド会社のバタヴィア船は処女航海で北オランダのテクセルからバタヴィア( 現ジャカルタ)へ出発した。フランセスコ・ペルサトという東インド会社の責任者は、バタヴィア船の指揮官であった。バタヴィア船の船長であるエドリアン・ジェイコブズーンは、ペルサトを指揮官に任命されることには賛成できなかった。二人は前の航海から敵対していた。
 ほかにバタヴィア船の航海で重要な役割を果した人物は、ペルサトの部下のジェロニマス・コネリスズーンである。また、バタヴィア国にいる夫と会う予定の女性ルクレシア・バンデァミジレンと、そのお手伝いのズワンジ・ヘンドリックスも船していた。
 船長のジェコブズーンは、ルクレシアを迷わせて堕落させようとしたが失敗した。ルクレシアは、指揮官のペルサトと、親友になった。そして、ジェコブズーンは、ルクレシアのお手伝いと関係を持った。
 航海が進むにつれ、ペルサトと、ジェコブズーンの関係は、さらに悪化した。ジェコブズーンは、船を乗っ取って海賊行為をしようと思った。彼は、コネリズーンと組んで画策していた。
 一六二九年四月十四日、バタヴィア船は、希望岬に着いた。港に滞在中に、ジェコブズーンは、コネリスズーンと、お手伝いさんのズワンジと共に狂気じみた酒盛りをした。

 指揮官のペルサトは、ジェコブズーンの行為について多くの苦情を受けていたので、乗員の前でジェコブズーンを叱責した。ジェコブズーンは、その事に大変腹を立ていた。

 その後に、バタヴィア船は、東へ出港した。ジェコブズーンが怒る様子を見て、コネリズーンは、彼の反乱の考えに賛成した。彼らの計画は、特別に選んだ数人と船を乗っ取り、軍人を殺害し、指揮官のペルサトをサメの餌食にし、そして、船の財宝を盗む予定であった。そのようにしてバタヴィア船を海賊船に変え、インドネシアに定住しようとした。
 反逆者の計画は簡単だ。まず、数人の船員にお嬢さんのルクレシアを暴行させる。そこで、ペルサトが船員を叱責すれば、それを口実として、反乱を起こすことができるからである。しかし、その前に、バタヴィア船は、暗礁に乗り上げた。離礁させようとしたが失敗し、すぐに崩壊した。
 十人は乗りのスキフ船と、二十三人乗れるヨールという小型帆船で、乗客や船員や食べ物や飲み物などを近くのアブルホス諸島に運んだ。島では、水が大変不足していた。この問題を解決するために、指揮官のペルサトと船長のジェコブズーンは、水を見つけるために二双の小船でオーストラリアの本土へ向かった。本土では、水を得るための多くの試みがなされたが、結局水は見つからなかった。そこで二双の小船でバタヴィア国へ出発した。二双の小船には、主に将校たちが乗っていた。七月七日、四十八人の一行は、無事バタヴィアに着いた。
 バタヴィアに着くと、ペルサトの告発により、甲板長は座礁の責任を追及されて、死刑にされた。船長のジェコブズーンは怠慢で逮捕されただけである。そのあと、バタヴィア総督は、ペルサトに快速船サーダム号で、バタヴィア船の財宝と生き残った人々を探すために、アブロホス諸島に戻るように命令した。
 その頃に、アブロホス諸島では、水がなくなってしまい、多数の死者が出ていた。少しの雨から集めた水では、二、三日間しかもったなかった。それに、コネリスズーンが難破船から戻った後、全員を支配下に置いた。ペルサトが去ったことにより、コネリスズーンが東インド会社の責任者となった。
 最初は、生き残った人々は喜んだが、その喜びは、続かなかった。
 コネリズーンは、武器、水、規律をすべて支配下に置いた。そして、二十人の軍人と共に軍人のウェブ・ヘイズ大尉と二十人の軍人は水を求めて、二つの大きな島に船で連れて行っかれた。コネリスズーンは、その島に、ヘイズ大尉とを置き去りにした。その後、彼らの殺戮が始まった。
 コネリスズーンと残酷な反逆者たちは、水と食料のために、反乱に加担していない人々を殺した。反逆者は、殺す行為に興奮した。女子供でも理由は何なく、殺害した。死体は、深い穴に投げ入れた。コネリスズーンは、次の計画を始めようとした。近くを航海する足の速い船を乗っ取り、バタヴィア船の財宝を奪った。彼の海賊になる計画が実際に始まった。
 その頃、ヘイズ大尉たちは、水や食べ物をたっぷり見つけた。島で、起こっていることを知らないヘイズ大尉は、のろしを上げて水の事を知らせた。それを見たコネリスズーンは、どうしたらいいのかわからなかった。なぜならば、自分たちの水量は不足しているが、他方で生き残った軍人たちが怖かった。のろしの返事がこないことを、ヘイズ大尉は、不信に思った。しかし、すぐに、いかだや、泳いでコネリズーンから逃げた人々が島に渡って来て、反乱のことを話した。
 攻撃が来ることを予測して、ヘイズ大尉たちは、防備を強化したり、どんな材料からも武器を作ったりした。現在、ヘイズ大尉たちの人数は、四十五人に昇っていて、コネリズーンたちを大きく上回っていた。ヘイズ大尉は、みんなに新しい武器の使い方を教えた。
 一六二九年七月の最後の週、コネリズーンたちはヘイズ大尉たちを転覆させようとした。コネリズーンは、言葉巧みに誘ったり、奇襲攻撃をかけようとしたが、全部失敗してしまった。双方に多くの犠牲者がでた。その後に、コネリズーンは捕まった。残った反逆者たちは、九月にもう一度攻撃をしかけた。その攻撃中、快速船サーダム号が近づいて来るのをその場にいた全員が見つけた。ヘイズ大尉は、サーダム号の船長に、反逆者たちが船を乗っ取る計画をしていることをつげるために走った。反逆者たちは、乗っ取るために走った。その競争は、ヘイズ大尉が勝った。そして、サーダム号司令官のペルサトに反乱が起きたことを告げた。ペルサトとサーダム号の軍人は、反逆者たちを攻撃した。

 そして…

 反乱は鎮圧された。
 反逆者たちは、難破船の上に集められて、犯罪を裁かれた。反逆者は、隣の島で罰せられた。彼らは、男や女子供など百二十五人を殺害したからである。コネリズーンと数人の反逆者たちは、絞首刑になった。コネリズーンは、特に罪が重く、手を切り取ってから、絞首刑にされた。残りの反逆者は、処刑されるために、バタヴィア国につれていかれた。
 バタヴィアに戻る前に、ペルサトは、小船でバタヴィア船の財宝を探す命令をサーダム号の船長と三人船員に下した。しかし、悪天候のせいで、その四人は二度と戻らなかった。バタヴィアに戻ったヘイズ大尉は、ヒーローとなり、軍曹に昇進した。一方、船を難破させたこと、造反されたことで、ペルサトは糾弾されて、地位や財産も剥奪された。そして、一年後、貧困のうちに亡くなった。