2010年6月17日

オーストラリアの行方不明首相


 ハロルド・ホルトという人は、一九六六年オーストラリアの十七番目の首相になった政治家だ。首相としての任期が終わる前に、ビクトリア州のチェビオット海で泳いでいるうちに行方不明になった。
 ホルト首相は、国会で三十二年間働いた。しかし、首相としての任期は、二十二ヶ月に過ぎなかった。ホルト首相の前任者のロバート・メンジーズの十八年間の任期に比べて、国民の影響は少なかった。
 一九六七年十二月十七日の日曜日、ホルトと首相と友達と二人のボディーガードは、イギリスからヨットで航海してきたアレック・ローズを見るために、彼らがメルボルンからドライブして来た。

 真昼だったのでホルトは、ビーチにドライブしようと思った。水泳やスキンダイビング好きなことで、有名なホルト首相の好きなチェビオット海に行った。荒い海にもかかわらず彼は、泳ごうと思った。
 彼は、みんなの警告などかまわずに、海で泳いだ。そして、すぐに彼は、見えなくなった。
 最悪の事態を恐れて、みんなは、警察を読んだ。すぐに、海で警察や海軍ダイバーや空間ヘリコプターや軍人が投入された。また、近くの町からのボランティアも、ホルト首相を探しに集った。
 オーストラリアの歴史で一番大きい捜索隊だった。しかし、ホルト首相は、見つからなかった。
 二日後、政府は、ホルト首相は死んだものと見なすと公表した。この好評で警察当局は、有名なへま「 捜索は to a dead halt( 行き詰まり)」と言ったが、オーストラリアのなまりでdead halt( 行き詰まり)がdead Holt( 死んだホルト)に聞こえる。
 総督のケーシ卿は、連立政権の代理首相のジョン・マックユエンを呼んで管理首相として宣誓させた。
 ホルト首相は、遠泳が得意、経験あるスキンダイバーだった。しかし、最近は、健康がめっきり衰えていた。一九六七年の初めに、国会の会議中に倒れた。同僚の政治家は、ビタミンの不足による、心臓病ではないかと疑った。
 一九六七年九月には、肩に大きな痛みを感じで、医者は強い鎮痛剤を処方された。医者は、肩が治るまでは、テニスや水泳などスポーツをしてはいけないと忠告した。しかし、ホルト首相は、医者の忠告を無視した。
 ホルト首相は、スキンダイビングで、危ない二度ほど目にあった。
 ある時、友達は、漏れるシュノーケルで、ダイビングを溺れそうになった。友達は、海水を吐きいている青い顔のホルト首相を海から引っ張ることになった。
 行方不明ホルト首相のことについて、いろんなうわさが流れていた。あるうわさは「 愛人と逃げるために、自分が死んだと見せかけた。」うわさは、信じられない都市伝説になった。それから、中国から潜水艦に誘拐されたといううわさもあった。
 一九八三年、イギリスの記者アンソニー・グレイは、ある本を出版した。その本は、ホルト首相が中国のスパイとして働いていて、潜水艦で中国につれていかれたと書いた。
 長い捜索に、多くの時間と莫大なお金が費やされるので、それ以上の捜索はされなかった。または、ビクトリア州の法律により、推定による死人の報告を認められなかった。
 一九八五年、ビクトリア州の法律が変わった。それにより、二〇〇三年、ビクトリア州の警察は千九百八十五年前の溺れて行方不明になった百六十一件の捜査を再開した。しかし、ホルト首相が行方不明になったから三十七年後、生き残った人が少ないし、新しい証拠もなかった。二〇〇五年九月二日、検視官は「 ホルト首相が不慮の溺死であった」と発表した。