2010年6月17日

バークとウィルズの探検



 一八六〇年、ロバート・オハラ・バークとウィリアム・ジョン・ウィルズは、十九の人男たちと共にオーストラリアをメルボルンから北のカーペンタリア湾まで、三千二百五十キロメートルを横断するする探検を指揮した。その時、アボリジニ以外、オーストラリアの大部分は人跡未踏の地であった。
 探検は成功したが、不十分な統率と悪運のせいで一人だけしか無事にメルボルンに戻らなかった。
 一八六〇年八月二十日、一万五千人に見送られて探険家の一体は、メルボルンのロイヤル公園から出発した。二十三頭の馬、六台の荷馬車や二十六頭のラクダなどを連れて行った。その上に用意したのは、二年分の食料、ナラの木のテーブル、二個のいす、花火、旗や中国のゴングなど用意したものは、一万八千キログラムあった。
 バークは、計画立案委員のカッドウェル船長から用意したものを船にのせマレー川とダーリング川を渡ることを申しだされたが指揮官として断った。
 その代わりに、六台の荷馬車で荷物を運び出した。しかし、ロイヤル公園から出る前に一台の荷馬車が壊れた。その夜、探検者たちはメルボルンの郊外のエセンドン町についた。
 エセンドン町で、また二台の荷馬車も壊れた。大雨とひどい道のせいで時間がかかった。

 ビクトリア州とニュー・サウス・ウェールズ州とが陸続きのスワンヒル町で荷を軽くするために、バークは、砂糖、ライムジュースや銃や弾薬を残した。
 馬の重荷を軽減するために、らくだに荷物をつけかえた。バークがランデルの用意したラクダの壊血病に効くラム酒を捨てたため、バークと次長のランデルは、口論になった。次の町でランデルと医者のベックラは、辞職した。
 それから、二ヶ月後、メンネンディ町に着いた。郵便馬車なら、一週間でメルボルンから来られるのに。
 その町で、二人が辞職し、十三人を首にし、新たに八人雇った。
 一年前の一八五九年七月、サウス・オーストラリア州の政府は、南から北まで一番最初に渡った人が二千ポンド商品をもらえることに決めた。年季が入っているジョン・ドウアルは挑戦した。
 バークは、どうにも負けそうな恐れがあると心配した。バークは、体の調子がよい七人と強い馬で残りの探険家の前を走った。
 一八六〇年十一月十一日、バークたちは、クーパー小川に着いた。その場所で、キャンプを敷いて北のほうを偵察したが、突然溝鼠の侵入のせいで、キャンプを川の上流に引っ越した。
 みんなは、バークがクーパー小川で秋まで待つだろうと考えた。しかし、バークは、十二月十六日、カペンタリア湾へ驀進した。
 ここでバークは、隊の編成をし直した。ウィリアム・ブラーエとほかの三人はここで待って、支給品を見張ることを命令された。バーク、ウィルズ、キングとグレイは、ラクダ六頭と馬一頭で出発した。バークは、ブラーエに三ヶ月待つように命令し、ウィルズには四ヶ月待つようにと秘密に命令した。
 北へ進んだ時、天気は暑くて乾燥した。しかし、戻る間に梅雨が始まった。その上、まずいことに支給品が切れた。

 荷物を運んでいるラクダ三頭を食べた。事態は、一頭の馬も食べなければならないまでに悪くなった。
 五月、グレィがニシキヘビを捕まえて、みんなで食べた。バークもグレィも赤痢になった。バークは彼が仮病を使っていると思った。グレィは、支給品を盗む現場をバークに押さえられて、殴られた。
 一週間たった後でも、グレィは歩けなかった。まもなく、グレィは亡くなった。残り三人は一日中グレィを埋葬した後で休息した。
 一八六一年四月二十一日、やっとクーパー小川に戻ったが、誰もいなかった。実際にその朝、ブラーエたちは、クーパー小川を出たばかりであった。バークとウィルズは、ブラーエを追いかけようと議論したが、彼たちは、疲れていたのでクーパー小川で待つことにした。
 そうしているうちに、バークたちに支給品を届けることになっていたライトたちは、漸進が遅くなった。途中、アボリジニのバンジガリ部族やカレンガッパ部族に悩まされた。
 北へ進んだとき、ライトたちは、ブラーエたちにばったり会った。ブラーエとライトは、バークたちがクーパー小川に戻ったと確認するために、二人は、クーパーへ出発した。
 その間、クーパー小川でバーク、ウィルズとキングは、ブラーエが埋めた支給品を食べる間に、これからどうするか話し合った。
 ウィルズとキングは、同じ道で戻ると言い出したが、バークはホープレス山の近く牧畜の入植地に到達するために砂漠を渡ろうと決めた。
 ライトとブラーエが、クーパー小川に着いた時、バークたちは、もうホープレス山へ出発していた。埋めた支給品の様子を調べなかったので、ライトとブラーエは、バークたちは戻れなかったと決めてかかってメンネンディ町へ戻った。
 クーパー小川から出ると、バークたちの漸進は遅くなった。砂漠で残りのラクダは、水溜りにはまって動けなくなって死んだ。ラクダがいないと砂漠を渡るために十分な水を持てなかった。それで、三人は、クーパー小川に戻った。
 支給品は少なかったが、クーパー小川のアボリジニに砂糖を渡し魚、豆やダンパというイーストが入らないパンと交換した。
 三人は、一ヶ月ぐらいクーパー小川にとまった。アボリジニのヤンデュワンダ部族から、彼らは魚と焼き溝鼠をたまにもらった。
 六月、バークとキングは、おそらく救助隊の様子を探しに出た。動けないほど病気が重くなったウィルズはキャンプに残ると言い張った。バークとキングは、はるか上流まで行ったが、バークは弱くなって続けられずに、その場所でキャンプした。翌日、バークは死去した。
 キングは、二日間バークと死体を一緒にいた。それから、キャンプに戻りウィルズも死んでいるのを見た。
 メルボルンで、アルフレッド・ハウィットが指揮した救助隊がクーパー小川へ出発した。
 九月、ハウィットたちは、クーパー小川に着いた。
 四日後、ヤンデュワンダ部族と住んでいるキングを見つけた。ひどい病気でキングは、救助隊とメルボルンに戻った。キングは、健康を回復しないまま十一年後、三十三歳で亡くなった。
 アボリジニからもらったナーデュ豆は、ビタミンB1を激減させることがあると、バークたちは知らなかった。アボリジニは、ナーデュ豆を主食とするが、特別な調理の仕方で無事に食べられる。おそらく、バークたちは、特別な調理をせずでナーデュ豆を食べて、脚気にかかった。
 ハウィットは、クーパー小川に戻ってバークとウィルズの死体をメルボルンまで運んだ。一八六三年一月二十一日、バークとウィルズのために、国葬が行われた。メルボルンでコリン道とスワンソン道が交わるところに、バークとウィルズの像が見える。