2010年6月17日

オーストラリアの奥地の山賊のネッド・ケリー


 ネッド・ケリーのお父さんのジョン・レッド・ケリーは、アイランドで生まれたあだなは、レッドといった。
 豚を2頭盗んだため、裁判官は、レッド・ケリーに七年の懲役を申し渡した。そして、一八四三年、オーストラリアのヴァン・デイモンズ・ランド、現在のタスマニア州に送られた。
 一八四八年、レッド・ケリーは、開放されて、ビクトリア州に引っ越し、ジェームズ・クインの農場で働いた。三十歳の時レッド・ケリーは、ジェームズ・クインの十八歳の娘エレンと結婚した。
 初産の子が早死にしたが、一八五三年に娘のアニーが生まれた。
 一八五五年、北メルボルンのベヴァリッジ町でネッド・ケリーが生まれた。子供の頃、在学中に自分の生命のきっ県を侵して、溺れてる少年を助けた。彼はお礼に少年の家族から緑のたすきをもらった。そして、死ぬまで緑のたすきを守って、山賊のよろいの下に飾った。
 ケリー一家は、何度か牛や馬を盗んで告発された。レッド・ケリーは、隣家の子牛を殺して逮捕された。罰は、六ヶ月の懲役か二十五ポンドの罰金のどちらかを選べた。
 レッド・ケリーは、お金がなかったから、六ヶ月の辛い懲役し選べなかった。最終的に懲役は彼の健康に致命的な結果をもたらした。そして、一八六六年十二月二七日、息子のネッド・ケリーが十一歳の時、レッド・ケリーがアベネル町で死んだ。
 お父さんに対する警察の仕打ちは、ネッド・ケリーに大きな影響をもたらすことになった。この時、ケリー一家は、土地を手に入れた。
 現在のケリー・カウントリと呼ばれているグレッタ町に引っ越した。ネッド・ケリーは、無法者と呼ばれる以前は、家族が警察に九回しか有罪にならなかったのに、十八回も告発された。その当時、ケリー一家が警察に不当な目標とされていたと考えられる。
 一八六九年、十四歳のネッド・ケリーは、中国人の農民アー・フークに乱暴を働いて逮捕された。十日間拘留された。それから、警察に未成年者の山賊と考えられた。
 翌年に、逮捕されて、山賊のハリー・パワーの共犯者として告発された。法廷で誰も証明できなかったから、一ヶ月で釈放された。逮捕されたのは、警察の追跡によるもので、釈放されたのは、目撃者にケリー一家が黙っているようにと脅迫したためと歴史家は考えている。山賊のハリー・パワーは、ネッド・ケリーの爺さんの土地で逮捕された。
 一八七〇年、十六歳のネッド・ケリーは、栗毛の馬に乗っているイサイア・ホワイルド・ウライトと会った。ライトがしばらくの間、マンスフィルド町に戻ることになっていたから、ネッド・ケリーに栗毛の馬を貸した。実は、その馬は、マンスフィルド町の郵便局長のものだと分からなかったので、ネッド・ケリーは、時々馬で町へ行った。
 グレッタ町で、ネッド・ケリーは、栗毛の馬について警察官のホールに取り調べられた。ホール警官は、栗毛の馬が盗まれたと分かっていたから、ネッド・ケリーを逮捕するつもりだったが、けんかになった。ホール警官は、拳銃を抜いて、ネッド・ケリーを撃とうとしたが、逆にネッド・ケリーがホール警官を倒した。そして、彼は、ホール警官に馬乗りになった。しかし、ついにネッド・ケリーは、逮捕された。その後でホール警官は、彼を何回も殴った。十六歳のネッド・ケリーは、懲役三年の刑に処せられた。
 一八七七年十月、グスターフ・バウムガーテンとウィルアム・バウムガーテンの兄弟は、ネッド・ケリーに盗んだ馬を売った罪で逮捕された。その時に、ネッド・ケリーの母は、アメリカ人のジョージ・キングと再婚した。ジョージ・キングとネッド・ケリーと弟のダン・ケリーは、一緒に牛の群れを盗むために組に入った。
 一八七八年四月十五日、警官のアレクサンダ・フッツパトリクは、手にけがをしてベナラ町の警察署に戻ってきた。フィッツパトリク警官は、ネッド・ケリーと弟のダン・ケリーと母のエレン・ケリーに襲われてけがを下と主張した。警察はネッド・ケリーとダン・ケリーを見つけられなかったが、エレンは赤ん坊と一緒に逮捕された。
 ケリー一家は、フィッツパトリク警官がネッド・ケリーの妹ケイト・ケリーに卑猥なこと言ったから、ネッド・ケリーの母エレンが彼の手を石炭シャベルで殴ったと主張した。ネッド・ケリーとダン・ケリーは、自分たちの無罪を警察に説得することが無駄だと思ったので、姿を消した。そして、友達のジョー・ブラインとスティブ・ハートに加わった。
 一八七八年十月二十五日、マンスフィルド町からのケンディ巡査部長と共にマックエンタイア警官とロンニガン警察とスカンアロン警官の四人は、ネッド・ケリーたちを捕まえるのためにウォムバット谷へ出発した。ストリンギ・バーク小川で二人組に分かれた。
 ケネディ巡査部長とスカンロン警官は、ケリーたちを探している。その間に、ロンニガン警官とマックエンタイア警官は、キャンプを見張るために残った。彼らは、ケリーたちのキャンプが一、五点キロメートル離れたところにあることは分からず、オウムを射撃した。射撃の音に気づいたケリーたちは、警官たちのキャンプを見つけた。警官たちは、試掘者に変装していたが荷馬に死体を運ぶための皮ひもが見えた。
 ネッド・ケリーとダン・ケリーは、警察官たちを降伏させて馬を奪おうと思った。彼らは、警察官たちのキャンプに近づいて降伏するように言った。マックエンタイア警官は降伏した。ロンニガンは、拳銃を抜いたが、ネッド・ケリーに撃たれた。
 残りの二人の警官が戻ってきた時にネッド・ケリーは、降伏するように言った。スカンアロン警官は、拳銃を抜いたが、撃たれた。ケネディ巡査部長は、木の間を逃げながら射撃した。しかし、彼は反撃されて殺された。マックエンタイア警官は、射撃の間に馬で無事に逃げた。
 射撃事件に即応してビクトリア州の国会は、誰でもケリーたちを撃つことが出来るという法律を決めた。もう、山賊を逮捕して裁判にかける必要がなかった。ケリーたちを捕まえることに八千ポンドの懸賞金がかかった。
 一八七八年十二月十日ケリーたちは、ユロア銀行を荒らした。フェフル小川駅を荒らしたばかりなので駅員に化けて銀行に入った。有り金全部を奪った後に、ケリーたちは、銀行の支店長と彼の家族をフェフル小川駅まで連れて、駅員の人質と一緒に閉じ込めた。山賊たちは、人質を楽しませるために乗馬の腕をみがいた。夕食を食べた後で人質に「 三時間待って危急を告げてもよい」と言って、出発した。その犯罪行為は誰にも傷お受けないで行われた。
 ジェルダイ町の強盗は、大胆で狡猾なことで有名である。一八七九年四月八日の土曜日、ケリーたちがジェルダイ町に来た。警察署を乗っ取って、警察官を警察署の独房に監禁した。そして、ケリーたちは、警官の制服に着替えて、シドニー市からの援軍には町民と交際した。
 月曜日にケリーたちは、町民を宿屋に集めた。ダン・ケリーとスティブ・ハートは、人質と店のおごりでビールを飲んでいる間に、ネッド・ケリーとジョ・ブラインは、銀行から二万ポンドを盗んだ。それに、ネッド・ケリーは、町民の抵当証書を焼いた。
 一八八〇年六月二十七にち、ケリーたちは、グレンロアン町の宿屋で七十人の人質を取った。蒸気機関車で警官が来ると分かったので、人質に線路をばらばらするように命じた。列車を脱線する計画が失敗した理由は、学校の先生のトマス・ケーナウがネッド・ケリーに自分を解放するように説得した。ケーナウ先生は、解放された後、線路に立って、赤いスカーフにくるんだ手提げランプを振って、列車を止めた。警察は、ケリーたちが隠れている宿屋を囲んだ。ケリーたちは有名なよろいを着けていた。誰がそのよろいを作ったかどうかは不詳である。好きに似た盗まれたものから作ったので各よろいの重量は四十四キロであった。
 早朝にネッド・ケリーは、宿屋を出た。拳銃を発射しながら、警察へ進撃した。弾丸が彼のよろいに当たって跳ね返ってよろいのない足に当たって重い傷を負った。ネッド・ケリーは、転んで逮捕された。残りのケリーたちは、宿屋で死んだ。ジョ・ブラインは、胸に打たれた後、出血多量で死亡した。ダン・ケリーとスティブ・ハートは、自ら命を絶った。
 ネッド・ケリーは、裁判官のバリー・レッドモンド卿に死刑を宣告された。あの裁判官は伝統的な言葉「 神様はあなたの魂を憐れみたまえ」と宣言すると、ネッド・ケリーは「 いいえ、地獄で会おう」と返事した。
一八八〇年十一月十一日、彼は、絞首刑になった。彼の有名な遺言は「 それが人生なのさ」と言われている。