2010年6月17日

アーサー港


 アーサー港は、オーストラリアのタスマニア州の州都ホバーとから六十キロメートル離れている。百年余り昔には、アーサー港は、オーストラリアの一番大きい囚人の流刑地であった。アーサー港には、タスマニア州のジョージ・アーサー代理知事¹にあやかって名付けられた。
 一八三〇年材木置き場として開拓移民は、港を作った。しかし、囚人の流刑地として有名である。
 一八三三年からアーサー港は、イギリスやアイランドの常習犯を再判するための場所であった。ほかの監獄の反抗的な囚人もここに送り込まれた。それは、誰も希望しない賞罰であった。なぜならば、アーサー港は、イギリスの衆人の流刑地の中で一番厳しいところからである。
 例えば、ロンドン市の監独制度に依拠している監独一八五三年に完成した。八十個の独房監独は、十字形で作った。周りは、運動グランド、食堂や教会であった。それは、肉体の処罰から精神の回改の変化を示した。
 この制度のサイレント・システムという罪を反省するために囚人が覆面をかぶせられて、黙らせられた。ひどい輸送、辛い生活状熊、奴隷のような奴隷にもかかわらず国の中で、ほかの囚人の流刑地に比べて、アーサー港は、監獄の改革として模範と見られた。
 アーサー港のある半島は、水に囲まれているので、逃げるのは難しい自然の場所である。幅三十メートルの本土に続く地峡は、囲いの上に監視人と腹ペコ犬が見張っていた。
 船員と囚人で、会話するのは禁止であった。来た船は、脱獄を防ぐために、帆とオール見張っていた。時々逃げようと試みがたいていは失敗した。ある時、囚人のジョン・ハントは、カンガルーの皮で変装して逃げた。しかし、腹を減らした監視人が貧弱な食料に添えるために、そのカンガルーらしい動物を狙って撃った。ジョンは早く正体を現して降伏した。監獄に戻ってむちで百五十回叩かれた。

 アーサー港は、少年も九歳より受けた。少年たちは、ピュア・ポイント半島で囚人たちと離された。囚人の大人たちのように、少年たちも重労働を受けた。例えば、石切場とか、工事で監獄隣に特定の宗派に尽かさない教会を作らせられた。
 全員は、教会に出なければならなかった。重労働やむちのほうに肩を持つ批評家たちは、それが囚人の性質を改めるために効き目がないといった。
 最先端の監獄として評判であったのに、実は、アーサー港はほかの囚人の流刑地より辛くてむごいところであった。
 一部の囚人にとって、逃げ道は死しかなかった。アーサー港の隣の島は、監獄で死んだ人のお墓であった。「 死の島」と呼ばれて、千六百四十六の墓から百八十つの墓標か立っているのは、監獄などの館員の墓であった。
 千八百七十七年、監獄が畳まれた。今日のアーサー港は、幽霊が出没すると言われている。独房から金切り声があがるとか、誰もすわっていないゆりいすが自動的に動いているなどはその一例に過ぎない。
 今日のアーサー港は、監獄の後を見るために、観光客が大勢やってきて、ガイドたちから昔の囚人の生活の話を聞いています。